人工知能は幻の熊を見るか

2026-05-23

エッセイ

AIは芸術を作れるか

 阿佐ヶ谷駅から暫く北上し、早稲田通りを渡った先に、こぢんまりとした昔ながらの飲み屋がある。おばあちゃんの家にあったような、じゃらじゃらという音が鳴る木製の珠のれんが入口に下げられて、いかにも昭和な佇まいだ。カウンターではおやっさんが焼き鳥を焼いていて、タレと鶏肉の香ばしい匂いが漂っている。壁には手書きのメニュー、ホワイトボードにはたくさんの日替わりメニューが書かれていて、人をワクワクさせるツボを心得ているのも分かる。なんというか、東京に残された最後の良心とでも言える素晴らしいお店だ。

 先日、この店で妻と近所の友人とで飲んでいた際に、ある話をした。それは、〝AI〟が芸術を生み出すことはできるか、ということだ。僕なりに考えていることもあるが、友人に聞いてみたかったのだ。僕はピンク色をした鯨肉のベーコンを食べつつ、「最近、AIが芸術や文学を作ることが出来るか、っていうことが話題になってるよね」と話題を切り出した。友人は手刀でテーブルを両断するかのような仕草をして、きっぱりと「AIにそんなことは出来ない」と言った。そもそも芸術とは何か。彼は言った。それは、〝人と人との対話〟であると。それが別の時代に作られたとしても、創作した人間と受け取った人間の対話なのだと。四万年前、人間がまだ洞窟にいたころ、ゴツゴツの壁に描いた動物の絵だって、誰かに何かが伝われば、それは芸術ということだ。

 僕もそう思う。誰かの内なるエネルギーが、何らかの形で何かを作る。……抽象的だな。例えば、戦争という人間が生み出した最も醜悪な争いのなかで、肌の色が違うだけで殺される人がいる、という怒りを込めて描かれた物語が、何十年先の未来で遠く離れた島国の田舎に住む高校生の心を貫いたとして、それは作家と高校生の対話なのだ。国や時代を越えたコミュニケーションが成立したということだ。
ある人の悩みの記録が、別の人の悩みを癒すことだってある。もしかしたら、その悩みの記録を読んだ人は、自分の悩みを記録するだろう。こういったコミュニケーションが連綿と続いていくことを、誰かが〝美しい相互援助〟と言ったけれど、これこそが友人の言うコミュニケーションなのだろう。

〝美しい相互援助〟は、当たり前だけど人間同士で行われるものだ。

文学について

 文学について、常々考えていることがある。例えば、近年では星新一賞でAIを創作パートナーとして使った作品が受賞したりしている。最終選考に残った作品も、AIが小説の主導的役割を担った、という例もある。

 たしかに、AIというかLLMは面白い文章は書けるかもしれない。昨今のモデルは優秀だし、独自学習をさせたローカルLLMを使っている例もあるようだ。例えば青空文庫の太宰治の作品と生涯の記録を学習させれば太宰治っぽいものは書けるかもしれない。そしてある程度上手で面白い作品になるかもしれない。

しかし、それにどんな価値があるのだろうか? 少なくとも僕には何の関係もない話だ。僕は自分にとって面白いかどうかだけで良し悪しを判断はしたくないと思っている。表面的な面白さより、やっぱり僕にとって大事なのは、上記のような、対話なのだ。まぁ、特に書き手が意図してなくても、こっちが勝手に対話として受け取ってしまうこともあると思うけれど。表面的な面白さで楽しむこともあるけれど。

 そして、〝文学〟については、AIでは書けない領域が確かにあると思っている。それは、私小説や自分自身、家族をモチーフにした小説だ。

 僕は色川武大が、中でも『百』という作品に収録されている表題作が本当に大好きだ。色川武大は持病であるナルコレプシーによる幻聴や幻覚に悩まされてきた。その病に関することが色川の作品に色濃く反映している。もう一つ、色川武大の作品に通奏低音として存在しているテーマは〝父との確執〟だ。この『百』は、家族にまつわる作品群が収録されていて、その中でも表題作の『百』は〝父との確執〟にフォーカスした作品だ。最後の一文で僕は涙が出るくらい感動したのである。

 『百』は、百歳を間近に控え認知症になった色川の父を巡る短篇だ。退役軍人である父は、一貫して家族に対して権威的な態度をとり、認知症になってもそれは変わっていない。子供の頃から厳しく躾けられたものの、大人になった色川武大は博打と遊興に明け暮れるようになり、父から幻滅される。しかし、この父は重力のように逃れがたい存在となり、本作だけでなく、色川武大の書いた作品に度々登場する。

 滲み出る人生の重みと一抹の滑稽さ。それらについて凄みのある文体で書かれた本作はあまりに美しい描写で終わる。

 色川の父は真夜中に家族(色川武大と弟の夫婦)を集め、こう話す。
「熊がな、庭に入ってきている。皆で探せ」
 認知症の父親は幻を見ているのである。家族全員で庭に出て、幻の熊を探す。僕は、この場面を描写した、小説を結ぶ最後の一文に目眩を覚えるほど魅せられてしまった。間違いなくLLMでは生成できない文章だ。

 家族と病、それらが複雑に絡み合う人生。こういったテーマで多くの文学作品が書かれてきた。人間の生き方はそれぞれが外れ値であり、LLMのように「確率に基づいた単語の予測」では到底語ることのできないものだ。そんな不可思議な人生を生きていると頭をもたげる「生きるとは、死ぬとはどういうことだろうか」という問い。私小説は個人の人生や内面が浮き彫りになるものだ。LLMに書けるものではない。そもそも、このような問いがある限り、文学は求め続けられるものだと、僕は思う。もしもこの先、文学が、いや小説というものが衰退するのだとしたら、それはAIの進化によるものではなく、人間が〝問う〟ということをやめたときなのだろう。